「神は見返りを求める」を見ました

はい……すごかったです。すごすぎました。全てのシーンを思い出すと胸が苦しくなります。ジェイコブが燃えるとことかな…。もうやめてーーーーーー。役者さんのお芝居もあるあるなイヤ~なセリフも、なんかちょっとひいた感じのカメラとかも全てがよかったです。全てが好きです。そして全てが胸糞が悪くてイヤです。

 

ユーチューバーが題材だけど、目の前の人をなんでもかんでもコンテンツ化して向き合うことを避けるのは現代人の共通の病だと思うので…。心当たりありすぎてしんどかったです。ラストシーンは嗚咽がこらえきれませんでした。もうだめだ。人生に爪痕を残されてしまった…。

 

「好き」より「嫌い」のほうが、心の底から存在を信じられるんですよ。なんでなんだろう。「好き」は、常にその証拠をかき集めたり定期的にメンテナンスや確認作業をしないといけない気がするんだけど、そしてそれは別にそんなに悪いことでもない気がするんだけど、「嫌い」は…身体が嫌いなんですよもう。だからもうこの話は私にとっては、「真実の愛の物語」でした。もうラストは愛だろこれ!?違うかな……知らんけど…。この監督に一生ついていこうと思いました。

書いて玉砕しろ

字書きとしての私の最近は、いったん書いた小説をなおすのがイヤです。添削に出してしまったのでなおさないといけないのですが、もうイヤでイヤで……。なぜこんなに小説をなおすのがイヤなのか……。あまりにもイヤすぎるので分析してみます。

 

なおすやつはこれ↓

kakuyomu.jp

 

・選んだテーマに対して自分の考えが浅すぎることへの苛立ち。

ツイッターで色々違うこと言ってましたが、ぶっちゃけ多分これが一番だと思う。自分が浅すぎる。「犯罪者にキャーキャー言うこと」「他人の命を奪うのがなぜイカンのか」などなど、書く前はさすがになんか出るだろと思ってたけどこれ以上ここ掘ってもなにも出てこんわ。なぜなら私は恵まれた環境でかなり呑気な死生観をしているので……。ただなにも考えてないからサイコパスとか描けるうすっぺらい恥ずかしい人間なんです。しかも賢く用意周到なサイコじゃなくて、ただ自分のことしか考えられなくて結果的にサイコになってしまっているただのアホのほうのサイコパス。つらい。自分がうすっぺらいことが露呈するのがひたすら辛いです。そしてそれをうすっぺらいですねと他人にしたり顔で言われるのもつらい。もう、こうなったら腹をくくって開き直ってうすっぺらさを丁寧に包んでお出ししていくしかない。うすっぺら人間一丁。テーマ選び大事すぎるやんけ。手の届くテーマを選べ。

 

・一番描きたかったと思しきキャラクターがブレてしまった。

藤田洋平。お前は誰なんだ。一体どういう人間なんだ。スピンオフをマンガで描いたことにより余計わからなくなってしまった。最初はここが一番書きたかったんだろうなぁ~と思いますが…。女に暴力を振るう人間のような気もするしそうじゃない気もするし。

 

・こんなことを分析している間に書け

いやほんまそれなんすわ…。ほんまそれ。言い訳している暇があったら書いて玉砕しろ。

社会がわからねぇ

小説三本目を書いてみたけど、今回社会派を目指したけど自分の中の「社会観」(世界観じゃなくて社会観)がものすごく稚拙だということに気が付いてしまって、アアア、アアアアアアとなっておりました。社会を言語化しようとすると脳が拒む。社会、怖い、意味不明、できれば関わりたくないと思いすぎている。会社は楽しいところもあったんですけど……でも私にとっては「社会」じゃなくて「会社」でしかなかった。社会ってなんなんだ。いつまで経っても社会人になりないまま老いていく。←無理せずこんな社会観をそのまま書けばいいんだろうなきっと。ww

 

そういえば発達障害のテストが帰ってきて、ADHDでした。おいまじか。なんかASD傾向あるけど確定ではないって言われたけどまじで納得いってません。この対人関係の苦しみ、絶対にASDのせいにしたい。(笑)

オッス!!

 こんばんは。猫はやってる薬が合ったのか今は元気です!! ただ、検査したところ既になす術もなかったので近々マジのガチで死にます!! 悲しいです!! オッス!! 常に猫のことを通底音で考えているような、そうかと思えば完全に忘れているような毎日です。猫フィルターが掛かっているので感受性がダメになっている。ムリなことがあると脳を少し締め付けて、なるべくモノを感じないようにするのが私の常套手段。しかし、そんなこと言ってる場合じゃないので小説を書きます……。

知らん顔

猫がヨボヨボになりながらも外を見たがるので窓を開ける。物干し竿にスズメがとまっていてけたたましく鳴いている。差し詰め「オマエヨワッテル!!シヌノカ!!シヌノカ!!」と問い詰めているようなカンジ。猫は弱弱しいクラッキングで答える。「死ぬってなんや?」

 

しかし、猫は自分が近い将来この世からいなくなることを全て理解しているような素振りも見せる。こないだ夜中に私の足の間にこれで最後のお別れやとでも言うように寝に来た。いつも猫は金縛りのように重かったのに、あまりに軽くなっていて泣いた。だが軽くても邪魔なものは邪魔である。寝られないのでいつものように足をどける。薄々気付いていたが私はかなりの薄情者なのかもしれない。猫はいつものように4時ぐらいにムクリと起きて部屋を出て行った。私たちの距離はきっと、いついかなるときでもこのくらいがいいのだと思った。

 

私が発狂して部屋で「イヤヤー猫ー!!」と泣き叫んでいたときも、部屋の中にトボトボと入ってきて私を一瞥し、涙を舐めて慰める……でもなく、すぐに去って行ったので笑った。ぎゃあぎゃあ鳴いて、ヘンなヤツ……。とでも吐き捨てるように。

 

猫は毎日確実に弱っている。でも、まだ生きている。自分が病気のことなんか知らん顔をして。

ガーン

 飼っている猫の調子が悪いので最近病院に通っていた。色々検査した結果肺に腫瘍があるっぽい。癌ってヤツかも。あっそー。そーなの。言われた瞬間は頭が真っ白になってしまっていたので、意外とガーンとならなかった。でも、こういうのはあとからじわじわ漏れ出してきて、徐々に生活を蝕んでいく。私は知ってる。

 だいぶ昔に犬を病気で亡くしたことがあって、そのときは感情がぐっちゃぐちゃになっていた。とくに母子分離ができていなくて、母親が落ち込んでるのを見たくなくてイライラして、私はずっと気丈にふるまっていた。今回はそんなことにならなかった。私も母も各々勝手に各々の方法で落ち込んでいる。私たちは成長している、という確かな実感。猫よ、お前は病気になってすら、私たちにまだ贈り物をくれるのか。

 猫が11歳になったとき、とうとう11歳になってしまったという現実が恐ろしくて「長生きしてくれにゃぁー」と声をかけた。そんなことは現実には効力をなさなかった。もしかしたら、ツイッターに「猫が夜中にカリカリを食べるbot」を作ったあたりから、私の直観は猫の異変を感じていたのかもしれない。猫がやがて飯を食わなくなるということの予兆を、五感のどこかで感じ取っていたのかも。でも、そんなことは現実には効力をなさなかった。まぁいいや。祈りなんてそんなもんだろ。

 ペットの終末はつらい。こんなに早く向き合わされることになるとは思ってなかった。本当にこれからどんどん弱っていくのか、コテツは。まだ、天然のアイラインに囲まれたクリクリの目はこんなにギンギンしてるのに。どうかコテツが手術適応になり、手術も大成功して、再び元気になって走り回り、ガツガツ飯を食ってくれますように。長生きしてくれコテツ。祈りなんて。でも、長生きしてくれ。

悲しき独裁者

 今朝、久しぶりにオンラインで哲学カフェに参加した。哲学カフェというのは、一つのテーマにそってファシリテーターがいる状態で数人で話し合うワークシッョプです。今回のテーマは「正論はなぜ嫌われるのか」。老若男女いろんな意見が出た。正論とは相手がつかれたら痛いところ、言わなければならないときもあるもの、理想論、感情に対する理性、自分は思ったことを言ってるだけなのに正論と言われてしまって困るなどなど……。私は正論を言うときは言い方をマイルドにするべきなんじゃないかな、みたいなことを言った。そして、「正論言うな!」とか相手に言われたときは最初はびっくりするけど、相手にとっての正しさや、自分が正しいと思って大切にしてるものを知る材料になるんじゃないかなとか言った。←でもこれって人によってはガチガチの「どんなときでも対話ベースでいるべきだ!」みたいな「正論」ですよねとあとで思った。(笑)職場やママ友とかのイヤイヤ集められた複雑な人間関係の中だと、こんないつでも冷静じゃいられないですよね。自分もそんな冷静でいたことない。自分が「人間、全員もっと空気読んで仲良くしやがれクソバカヤロー共が!」という、悲しき独裁者みたいな世界観で生きてることがわかった。(笑)