うちはニーマンが好きなんや

セッションをスポ根に例える意見をネットでよく見ますけど、私は童貞文学だと思うんです。童貞が童貞ならではの葛藤したり調子に乗ったり叩き潰されたりする話だと思うんです。で、ラストシーンで晴れて、バリホモソーシャルの頂点に君臨するフレッチャー先生を越えて、超絶技巧を習得して、まぁこれから女にもモテだすだろうってとこで終わってて、サイコーじゃないですか。パラダイスじゃないですか。私はこのラストシーンを素直にカタルシスとして消費しつつ、一方で後ろめたさがあった。「おいおい気持ちわりーな!?」っていうことです。アンドリューは作中練習する→褒められる→調子に乗る→怒られる→逆ギレ→練習するっていうプロセスをずっと踏んでるだけで、全くメンタリティは成長しなかったじゃないですか。そんな状態でポンッと成功してしまうなんて、そんな虫のいい話、それこそ童貞の妄想を真に受けてしまうのはなんかバカみたいで嫌だなと思って。なので「プロドラマーになったアンドリューは10年後ドラッグ中毒で死ぬ。自分をドラマーにしたフレッチャー先生を愛したり恨んだりしながら死ぬ」と言い続けてきたんです。この童貞ソウルをぐらぐら揺さぶる気持ちのよすぎるラストシーンを享受するには、死ねば辻褄が合うと思っていた。

 

監督であるデミアンチャゼルが昔ドラムをやっていて、今ドラムをやっていないってことは、やっぱりアンドリューに自分の願望や妄想をモロに託してるわけじゃないですか。「あの時先生に認められたかったな」って。そしてアンドリューは監督を越えて向こう側に行ったじゃないですか。というか、セッションは私にとって「アンドリューは向こう側に行ったんだ」という物語だったんです。だからやっぱり、向こう側に一緒に行きたいなって思ったんです。そこで、向こう側ってなんだろうと考えました。単純に、「死」や、「第二のチャーリーパーカーになって活躍する」とかではない向こう側。


アンドリューはプロになってからも調子に乗って潰されて這い上がってを繰り返す。次第に意識的にしろ無意識的にしろ、フレッチャー先生の眼差しを試すような態度になっていくと思うんです。フレッチャー先生がどこまで自分を見ててくれるか、なにをしてもちゃんと叩き潰してくれるかどうか確かめるようなカンジで調子に乗ったり無茶をする。でも段々活動する場所が違ってきて疎遠になり、やがてフレッチャー先生は老いて一線から退く。そんなフレッャー先生を呼び戻そうとするように、アンドリューはキッズリターンのモロ師岡みたいな悪い先輩に近付いてドラッグを覚える。フレッチャー先生はやっぱりアンドリューのこと殴ってくれるんだけど、もうおじいちゃんだから全然パンチが痛くないんですよ。悲しいですね。そしたら余計にドラッグするじゃないですか。そして30歳前ぐらいになって奏者としても忘れられボロボロになっていく。


私の解釈のフレッチャー先生は、一流の奏者を育てたいから厳しくしているんだと心の底から思っていると思い込んでいるんですけど、無意識裏に二流の奏者としての嫉妬心で才能を潰してやりたいという悪意も持っている。ドラッグ中毒で病院送りになったアンドリューを見て、「ざまぁみろ」と思った先生は、初めて自分の中の悪意を自覚して驚くんですよ。病床で懺悔するかもしれない。アンドリューはなにそれ今更ふざけんなとフレッチャー先生を恨みますわ。でも、もう死ぬって手前のところで、フレッチャー先生のいないところで自力でスティックを握り始める。


アンドリューはおじさんになって、またプロになってるかもしれないし、音楽学校の先生になってるかもしれないし、ショボいジャズバーで演奏してるかもしれない。場所はどこでもいいんですけど、またドラムをしているんですよ。フレッチャー先生はもうお爺ちゃんなんで老衰で死にます。死の床で思い出すのはアンドリューのことではない。死なせてしまった生徒とか、愛する家族とかのことなんです。アンドリューは所詮フレッチャー先生の人生のワンノブゼムに過ぎないんですよ。でもアンドリューはドラムを叩いている。フレッチャー先生がこの世を去る瞬間も、去ってからもスティックを握って、のうのうと鼓動を刻み続けるんですよ。それがフレッチャー先生に対する最高の復讐と恩返しで、向こう側にいるアンドリューの姿だと思ったんですよ。そしておれのセッションのラストシーンはこれやなと思いました。