虚日記、はじめます。

もっぱら夜中に人のブログを読みに行くのが最近の楽しみだ。それも有名人とかライターとかではなくて、ちょっと文章が上手くてどこか鬱屈したカンジの一般の人のもの。生活の延長線上にいそうな人が、生きるのが辛そうな感性で目の前の世界を切り取った言葉を読んでいると、ああ~一人じゃないんだなという気持ちになってくる。「そうだ。ぼくは、ひとりじゃない」。こんなコピーライターみたいな句読点をつけるムズムズするブログを書く人がいて、こないだ「嘘日記は、気持ちがいい」と言っていた。フィクションの日記に気持ちを乗せることで、脳の創作回路が動いてツルツルと文章が出てくるらしい。なにそれすげぇ。その感覚を味わいたくて、真似をしてみることにする。そのまま嘘日記だとパクリになるので、僕の場合は虚日記ということにする。 ところで話は変わるが、漫画にも一人称と三人称があるのではないだろうか。「あらかじめキャラクター像を作ってから動かす」というオーソドックスなやり方が、10年近く挑戦してもどうしてもなじまなかったのは、多分それが神の視点で出来事を描く三人称的なやり口であるからだったんだ。僕は毎日ノートに日記をつけているし、たまに小説を書いても一人称形式だから、圧倒的に一人称の文章が書き易い人間だ。これで二次創作の方が上手くいくのも説明がつく。好きになるキャラクターは、感情の一部が僕に似ている。その「僕の部分」を目にして、そこから見える周りの景色を作り込んでいくのが、僕にとっての二次創作の感覚だった。これは一人称の視点で文章を書くことと似ている気がする。なんでこんな単純なことに今まで気が付かなかったんだろう。キャラクターを作ってもうまくいかない僕の一次創作は、自分の生活をそのままに切り売りしなければいけないと思い込んでいた。生身を切っても自分が痛いだけだった。そうしてすっかり、加工したり虚飾したりする遊びを忘れていたと思う。創作の回路に水を通すための虚日記を書くにあたって、まずは簡単に、性別を逆にした僕の書く日記を考えてみることにする。BL漫画家になりたい『私』はやっぱり冴えないアルバイトで、父親と仲が悪く、毎日クソマジメに虚勢をはって生活しているけれど、ふと夜中に眠れなくなってこんな風に、似たような文章を書いたりしているんじゃないだろうか。

私のお兄ちゃん

二つ上の兄から突然メールがあった。「出張で関西に来てる。行けたら今からゴハンでも」。原文ママ。さすが化石のガラケーユーザーの文面はそっけない。マジメ気質な兄はウン年前、両親が離婚すると言い出した時、ダメな父親が心配だからと家に残った。(母についた私は冷たい呼ばわりされた)そのくせ、地元の三流大学を出たらあっさり彼女と結婚して、関東の企業に就職していった。それからは年に一、二回ぐらいしか会っていない。「冷たい」呼ばわりされたことは未だに根に持ってっているが、ちょうどヒマだったし、適当に会うことにする。

「小説も最近は全然描いてへん。会社でも相変わらず浮いてる。そんでなんか、人から愛されるために生きてるみたいなやつがいて、そいつのことが自分見てるみたいでめっちゃムカつく」

グダグダ管をまく甘え方しかできない私の話を、兄は叱るでも諭すでもなく聞いた。「そうか。そいつは多分、愛されることがどういうことかわかってへんねんなぁ」

ガキの頃、私たちはモノポリーをよくした。私は負けん気が強い癖にゲームは弱い。負けが込むと段々機嫌が悪くなる。そんな私をせせら笑いながら打ちのめす兄、というのがいつもの構図だった。ある日、私がついに癇癪を起して派手に泣き出すと、気の弱い兄はおろおろして「せや。今から、借金多い方が勝ちな」と言い出した。おかげでゲームはむちゃくちゃに掻き回されておかしかった。

兄は夏に生まれた娘の写メをもじもじ見せてきた。鞄から取り出した携帯は、なんとピカピカのスマホだ。「全生涯ガラケー教通すて散々言うてたやん」「せやねん。○○ちゃんいっぱい撮らなアカンと思って」私にとっては姪っ子にあたるのだが、一度会ったきりだから正直可愛いとか可愛ないとかいう実感がない。なんじゃこりゃ。というカンジ。それよりも、猫背になり真剣な目つきで画面をタップしている兄の方が、私には可愛かった。だけどこの人はもう、別の家族がいる父親なのか。私の家族に戻ることは、もう二度と無いのか。「私、お兄ちゃんの子供になりたい」。今ここでそう言って泣き出してしまえば、いい加減負けが込んでいるこの人生を、またルールを書き換えて掻き回してくれはしないだろうか。

ハンニバルを見ました

ハンニバルを見ました。羊たちの沈黙を見た時、ファザコンの話だな…と思いましたが、今回はよりいっそうその思いを強くしました。というか「"自分は望んでいないにも関わらず"性的にも相手してくれる、都合のいい全能のお父さんとワタシ」のお話であるところが、自分のあんまり見たくない部分の嗜好に合致しすぎて痛いというか…。オチのレクター博士が自己犠牲で逃げ果せる展開なんかも、都合のいい物語を消費してる時の居た堪れなさがありました。

というか、都合のいい物語を消費すると居た堪れなさを感じるんだけど、あれはいったいなんなんだろうと思います。昨日「きょう会社休みます。」を見てても思ったんだけど、私だったら、8つ(9つ?)年下のイケメンが「ボク、あなたと似てると思うんですよ…」とか言いながら誕生日にケーキ用意してくれたら、「マジ!? こいつ私に気あんの!? セックスできんちゃうん!?」って思うに決まってます。思うに決まってるんだけど、主人公は「えぇー!?どうしよう。私はちっともそんなつもりないのに…」というテンションのまま、最後までヤッてしまうんですよね。(実はヤッてないかも、このあと自分の欲と向き合う展開があるかもですが) この、「私はちっともそんなつもりないのに」という文脈、正直、魅力的すぎるんです。欲と向き合って叶わなかった時のダメージを想定して予防線を張ってるのかなんなのか。そういうところに身を任せてノってしまうのに罪悪感があります。

だからハンニバルも…異常殺人者であるけれども、ワタシのことだけは傷つけず、お上品な趣味で、ワタシを傷つけた男を超残忍な方法でブッ殺してくれて、女のニオイが全くせず(インポなんか!?)、ピンチからお姫様抱っこして助けてくれる…。あなたこそ、パーフェクトパパ!? クソッ…その手には乗らん…というカンジです。

フリーターのおとこのこ

バイト先には大雑把に分けて大学生のおんなのことフリーターのおんなのことフリーターのおとこのこがいる。フリーターのおとこのこは、フリーターであるというコンプレックスのせいか、どこか斜に構えていたり態度が頑なだったりする。私は私で同じようなものだから、いつも鏡が乱反射するような、お互い自分を守るためにあえて的を得ないような会話ばかりしている。先日その中のずっと年下の一人に、実は子供がいるとかいないとかいう話が出た。そいつが「子供が…」と言い出した時に私はドッキーン!! となって、ギャアーッとなって、勢い余って話をスルーした。若いのに挙動に親父臭さみたいなものがあったのはソレのせいだったのかとか、そいつにはどこか安心感を覚えていた私のファザコンセンサーは精度バツグンやないかとか、家族構成や資金繰りはどうなっとるんやとか下世話なことを色々考え、キャパシティオーバーで頭が爆発してしまった。ちゃんと真相を確かめていないので、全部私の勘違いかもしれないが、これがもしフリーターのおんなのこだったら、なんにも思わないだろう。主夫、あるいは、男性に対する、社会の風当りの強さを、自分の中の実感として実感した。そして私は、いい加減な自分のことを棚に上げるため、女という性を利用するしたたかさを、いつのまにか身に着けていたのだなぁと思った。

ビューティフルマインドを見ました

最近、相棒12-2「殺人の定理」を見て、雷に撃たれたように数学者の可愛さに目覚めてしまいました。しかし調べれば調べるほど数学者に焦点を当てたフィクションってすごく少ない。やっと見つけたこれも数学というより統合失調症がメインの話だったような…。事実を美化してるとか、統合失調症ってこんなんじゃないとか、そんなことはどうでもいいんですが、一番衝撃的だったのはジョンナッシュが初めて心を通わせた友達のチャールズが幻覚だったことです。奥手で偏屈なジョンが、心の中では放蕩者でアル中で女にだらしないルームメイトを望んでいたなんて…。めちゃくちゃ萌えました。小学校の先生に心が半分しかないって言われたことずっと気にしてて、でもそれを笑い飛ばしてくれたチャールズは幻覚、論文が書けなくてウジウジして頭爆発しそうになってた時、でもそれを笑い飛ばしてくれたチャールズは幻覚…。わいはなにを信じればええんや…。お別れのシーンもすごくアッサリしてたので、最後までボカーンと穴が空いたままの気分でした。

チャールズもその姪っこもパーチャーも、奥さんにとげとげしい態度をとられて寂しくなったり、自分が社会的に惨めになったりすると出てくるんですね。きっと私たちにとっての「気分」と同じようなものなんだろうなと思いました。ジョンは現実に向き合い続けて最後は報われたけど、幻想はその道程を助けてくれた肯定的な面もあって…。例えば根を詰めていたジョンを「最後にいつ食べた?」と、チャールズが気遣ってお酒を飲みに誘い出すシーンとか。(のちのちジョンが同じセリフで学生に向き合った時、チャールズはジョンの持っていた一面でもあったんだなぁと思いました)幻想はジョンの人生をめちゃくちゃにしたけど、偏った人間だったジョンが完成するためには必要不可欠だったのだろうなぁ。

ところで、ジョンが精神病院で「私の名前はジョンナッシュ!! 意思に反して拘束された!!」とか叫んでる時に、警察に捕まった時の名護さんを思い出して、自分の名前を連呼するタイプの錯乱はやっぱり相当ヤバイんだなと思いました。

パラドクスの監獄

大阪にもついにヒトカラ専門店ができたらしいので、この溜まりに溜まったストレスを解消しようと行ってきた。元々カラオケは好きだったし、歌いたくなったら普通のチェーン店にも一人で入っていたが、専門店がどんなところなのか興味があった。

梅田のカラワンというところだ。(ワ○カラではない…)恐る恐る受付を終えて店に入ると、真っ白い壁にドアが並んでいる。一見小ぢんまりした普通のカラオケ店と同じだ。だが、すぐに違和感を覚えた。伴奏やエコーの音が全く聞こえてこないのだ。人が歌っている声だけは方々からする。あまりにも全力なので、なにかを訴えたり叫んでいるように聞こえる。まるで往生際の悪い受刑者の揃った刑務所に迷い込んだようだと思った。個室に入ると、ネットカフェのブースの広さに、ネットカフェみたいな椅子と机、マニアっぽい音調節メモリが並んだ機器とモニターがあり、天井にはエアコンとカラオケっぽい照明が完備されている。目をひくのは、中央を陣取っているプロ仕様のマイクだ。スタンドになっていて持たないで歌えるようになっている。おずおずとヘッドフォンを装着すると、CMが流れてきて、やっと慣れたカラオケっぽい気分になる。どうやら伴奏とマイクを通した声は、全てヘッドフォンから聞こえるので廊下に漏れていないようだ。早速大好きなマッキーの「素直」を入れてみよう。デンモクを操作する時のカチ、コチ、という音があまりにもクリアに聞こえる。性能の良すぎるマイクが音をクリアに拾っているのだ。歌いだすと差は歴然だった。普通のカラオケのマイクは、エコーがボヤボヤしたり部屋が音を吸い取ったりして、かなり声を張らないと自分の声が聞こえない。しかしプロ仕様マイクは、小さめの声で歌ってもきちんと拾ってくれる。それは、どこで音を外したか、どこで声が裏返ったか、椎名林檎の声質をなんとなくマネててもいかに全然似てないかなど、わかっていても認めたくなかったなにもかもが突き付けられるというとだ。ストイックすぎる。しかし利点もあって、音域がちょっと下の方の曲を歌っても全部拾ってくれるから、歌えているような気分になる。高いところも声をはらなくてもいいから喉が疲れない。中島みゆきを歌っているうちにテンションがあがり、あっという間に私は囚人たちの仲間入りをした。

カラオケは社会の縮図だ。選曲、テンション、リアクション、相槌、飲み物を頼むタイミングまで、気を使わなければならないことが山ほどある。でも、あの人が実はこんな歌を知っていただとか、この人が意外と歌う時の声がカワイイだとか、普段とは別な角度からコミュニケーションが深まる場でもある。それらすべてを煩わしいものとして逃げ出してきた者たちが、昼下がりの薄暗いヒトカラ専門店に閉じ込められていた。私たちの罪状は他人を拒絶したことだろうか。そんなことを考えながら、そこにいない他人への愛を歌うエモいバラードを入れまくった。スワロウテイルバタフライとかです。

Sの病

精神異常者や犯罪者と呼ばれる人たちと、所謂善良な市民と呼ばれる人たちの間には、明確な線引きは存在しないのではないかと考えている。普通の生活を送っている人の中に重度神経症的発言を聞くこともたくさんあるし、誰もが状況次第で罪を犯す可能性を大なり小なり孕んでいるだろう。しかし、バイト先にいるSはいつか人を殺すんじゃないかと思っている。ほとんど確信にも近い。「誰もがグレーである」という頭の考えと「だがSだけは黒だ」という心の思いが、一個人の私の中に奇妙に両立している。

Sは私のかつて犯した間違いを犯し、私が恥じてやめた言動を繰り返し行い、私が実像とかけ離れているため諦めた理想自我を未だに生きているため、周囲からの認識と齟齬が生じている。

という分析を補強する為に、「Sって長男だよね?」「親や親戚中に期待されて褒められまくって育ったよね?」「子供の頃は成績優秀だったよね?」「そして社会の底辺に失墜した今も優秀な自分を諦められないんでしょ?」「今の無能で役立たずな自分は存在してちゃダメだから、いないことにしてるし、そういう扱いを他人にも望んでるんでしょ???」などと、内的に踏み込んだ質問攻め(これらは自己紹介でもあるのだが)をしたくてしたくてたまらない。Sと仕事をすると、3倍ぐらい働かないといけないので死ぬほど疲れてうんざりするのに、すこしだけ昂揚したような気分になる。きっと目の前の人間関係にかかずらわっている時は、自分の問題に構わなくて済むからだ。Sは変わらないといけない。Sはこのままではいけない。しかしその思いは自分の問題からの逃避だから間違っているし、関わる覚悟は無いし、関わりたくないし、関わったら絶対めんどくさいことになるから我慢しなきゃいけない。

Sは頻繁にミスをする。その報告をする時、「自分が不利にならないようにちょっとアレンジした事実+自分なりに思いついた解決策+浅い経験からくる勝手な憶測+責任を擦り付けたい第三者の名前」を句読点無しでランダムに一気に並べ立てる。頭の調子がいい時は、膨大な言葉の中から必要な「事実」だけを取捨選択できるのだけれど、平時は全ての言葉とそれに乗せられた「俺は悪くない」という感情が、一気に頭の中をぐちゃぐちゃに侵す。俺は悪くない。俺は悪くない俺は悪くない俺は悪くない。だから見棄てないで見棄てないでお願い見棄てないでどうか私は優秀で特別だから愛してください誰でもいいから愛してくださいお願いします。

昼休憩でご飯を食べようとした時、口があかなくてびっくりした。よっぽど歯を食いしばっていたのだろう。

ある日「Sのミスを糾弾する」という大義名分の下に、Tによるいじめのような制裁が行われた。Tはなにがしたいんだろうと驚いた。まぁ単純に鬱憤を晴らしたいんだろうな。正しいことがそのまままかり通るなんてもう信じていない癖に、鬱憤晴らしの言い訳をする為に正しさを使うなんて、中学生みたいなセンスだと思った。問題はその対象がSであるということだ。Sは下手に踏んだら爆発する地雷だ。その辺を血だらけにするビジョンが、私にはあまりにも明確に見える。「ヘタなことしない方がいいですよ。Sは多分キレたらなにをするかわからないですから」Tにそう伝える時に、自分の表情が酷く歪んだのがわかった。感情的にならないよう、嫌悪感と嘲笑と同情と同族意識を抑圧しながら話そうとするが、胸の内に待機していた差別的な酷い言葉が次々と唇の端から漏れ出てくる。一旦言葉が外に出ると、開放感の快楽に身が悶える。そんな自分へ嫌悪感。私の顔はそれらをすべて同時に実現していた。さぞかし醜かったに違いない。Tに「そんな言い方じゃぁ、まるで変人扱いじゃないですか」と言われて気が付いた。Tは普段Sを口汚くののしりながらも、自分たちの延長線上のグレーとして扱っているのだ。誰よりもSと自分を線引きして差別化したいのは、私だった。私はいつかSが人を、私を殺すのだと思い込んでいたが、本当は私がいつかSを殺してしまうのかもしれないと思った。