読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

人生の仕事

日記

友達に片道一時間半かけて会いに行った。40代のおっさんである。経歴がちゃらんぽらんな人で、最近の職業はザ・アウトサイダーアートな絵を描く自称食えない画家だ。そんなおっさんと話せば、私のこの人生に対する態度の「固さ」みたいなものが、多少なりとも中和できるのではないかと思った。

 

ところで私はおっさんに一時期構い倒されていた。こいつは気があるんじゃないかと警戒していた。だけど今は思い返すとあれは、誰にでも距離をゴリッと詰めるおっさんのやり方と、「人生に彷徨える年下の人間」を気遣う年長者のやさしさの態度だったのではないか。私も大概視野が狭くて自意識過剰だし、なんか申し訳ないことを思ってたなーという気持ちがずっとあったから、改めて適切な距離感の人間関係を築きたいという思いもあった。

 

で、待ち合わせして会って、喫茶店で話したいと言うと、おっさんはものすごく渋って「…なにか買って、車の中で話さへん?」と言った。アカン、やっぱこれヤられると思った。ヤられたくなかったので話している間はいつでもドアをあけて逃げられる心の準備だけはしておいた。

 

仕事で描いてると思っている。崖っぷちやから。とおっさんは言った。崖の下は社会的な転落を意味するのかと思ったけれど、よくよく聞くと「死」だった。自分はアーティストではない、これが仕事だと思ってるから、拙くても評価されなくても嫌でも毎日やる。毎日考える。とおっさんは言った。私は車のドアに手をかけながらも改めておっさんを尊敬した。

 

19歳の頃がピークでそこから感性が毎年腐り続けていると思い込んでいた。でも、一昨年とか去年の自分の文章を読むと、あれっ結構面白いぢゃん…と思える。感性は緩やかに変化しているだけだ。未来のあるかないかわからない幸せを担保にして今死ぬほど苦労している人ってよくいるが、私の場合は過去のもうよくわからなくなっている自分を万能の担保にして、今から目を背けているのではないかと思った。感性はいつも私の傍にあって、私はそれをどんな形であれ努力をして表現し続けなければならない。それが私の人生に課せられた仕事だ。

 

おっさんは家まで送ってくれた。しかし、明らかに何回かカーナビの記す道から外れていた。しかも「俺、人ひいたことあるねんタハハ」マジデカ。このDEAD or SEXみたいな状況で久しぶりに車酔いしながら、そんなことを考えた。「おかあさんがいえでばんごはん作ってくれてるから…」と色濃く残る幼児性を強調したので無事に帰れました。