フク、フクフク、フクフクフクフクフクフク

トキワ壮プロジェクトに応募したけれど審査で落ちたので、浮いた引っ越し資金で好きなことをしようと思った。好きなこととして一番に思いつくのが「洋服をしこたま買いたい」だった。私は服コンプレックスが異常に強い。「外に着ていく服が無い」という理由で引きこもりになったくらい。おそらく大部分の普通の人は、なにか新しいことをしようとする時「人の真似をする、先人からとりいれる」ということが無意識的というか身体的にできるのだろうけれど、私は「よし、真似をしよう」ということを一旦頭で考えたり言葉で分析しないとできない性質で、しかもそういう性質だとまだ分かっていなかったので、どういった服を着たいとか着ればいいとかは大人になれば自然と身に付くものだと思っていた。そして身についてなかったのでパニクッた。服屋に行こうにも、当然のようにオシャレをしている他のお客さんや店員さんが怖すぎて、パニック発作で眩暈を起こしながら服を買ったこともある。友達に協力してもらって大分克服したけれど、今でも頭の調子の悪い時は服を選ぶことができない。しかし、躁状態に近い時は「一年中洋服のこと考えていたい…」とか思て、夜中までぼーっと通販サイトを見ていたりする。なぜなのか。

私の場合、洋服を購入したいという欲求は、DNAレベルで刻まれているのだろうと思う。母も、そして私の祖母にあたるその母もまた、身の丈に合わないほど大量の洋服に埋もれて生活してきた人だからだ。いつも子供の私を連れて街へ出かけては、本屋で私に「スーパーマリオくん」の単行本を買い与えて大人しくさせ、紙袋いっぱいになるまで服を購入していた。大人になってからそんな母の姿を思い出し、服を買うことでなにかから逃げている、なにかを隠している、欺瞞だのビョーキだのと批難してきた。もしかしたら今まで長らく「どういう服が着たい」とかいう欲求が沸いてこなかったのも、母の姿を見て感じた「服が欲しいという気持ち」への嫌悪で抑圧していたのかもしれない。でも、この年になって思うのは、欺瞞でもビョーキでもいいから服でも買わんと人生やってらんねーなっていうことです。

因みに、私のバイト先では、仕事のできなさとオシャレ度(服にお金かけてそう度と言った方が適切かもしれない)が正比例しています。