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緩やかな死刑

ここ数か月ずっと、「大事なものを入れる鍋の底に穴があいてなにを入れてもそこから漏れ出ていくような感覚」があったのだが、先日滋賀の友人宅にお邪魔してきたので大分具体的に回復した。家の周辺で朝方に輪唱していた大量のひぐらしの非現実感も手伝って、村上春樹よろしく「非日常から行って帰る」イニシエーション的体験だった。私はここ数年ほどずっと、この重箱の隅をつついて出てきた米粒をさらに箸で理路整然と並べなければ気が済まないような感受性を無意識に、ある時は意識的に亡き者にしようとしていた。そんなものを持っていれば生き難いのは決まっていて、できれば無くなってほしかったし、そういう感覚を持ってるんですよーとひとたび外に出すと大抵自分の思うように受け取ってもらえなくていちいち傷ついていたのだ。しかし、思い返せば私の出し方も大体悪かった。隠して溜めてリミットがヤバくなると優しそうな人や少しでも波長が合いそうな人を目ざとく捕まえ野々村議員のようにデローンっと披露してしまっていたのだから、同じ感覚を持たない他人の感想はそうなるに決まっていた。これからは私はいちいち細かい人間であることを自覚し、さらに小出しにして日常的に、大勢の私と異なる感覚を持つ人たちにも「私、いちいち細かい人間なんスわ」と表現していく必要性を感じる。しかも、それを表現してどう受け取られようが相手の自由だと徹底的にふんぞり返らなければならない。

ところで、人間は周囲の環境に合わせるように特化していく生き物だという。私のような意志薄弱な人間は、成長していこうと決意を新たにしたところで、結局どんどん今のバイトの環境で楽になれるようになっていくのではないだろうかという不安が生じる。また薄暗い淵での自問自答が始まる。バイトはとにかく楽だ。頭の集中力は6割で済む。人間関係もあるから寂しさもある程度紛れる。肉体を酷使したあとの疲労は「私はなにかをやっている」的安堵感を与えてくれる。楽だ。あ~なんて楽なんだ。机に齧りついてなにかを産みだそうとしている時よりずっと楽。少なくとも布団から出られない自分を責めなくて済むのが楽。楽…。

先日、数合わせの付き添いとして社員の研修に出た。見た目の良い外部の講師が「お客様を感動させ、リピートに繋げる原動力はチームのコミュニケーションです」と繰り返していた。日々レンガを積むだけの単調な作業も、大聖堂を作るという目的意識を持てば楽しくなって質が良くなるというストーリーが目の前のスクリーンに映し出される。私は「わしらの意識改革よりまず賃金あげるのが先やろ。ものごとには順序ちゅーもんがあるんじゃ。わしの目は誤魔化されへんど。ファッキンブラックコーポレーション」と思った。思っていたはずだったのに次の瞬間には「でも、もっと仕事の質をあげる為には、みんなとコミュニケーションをはからなきゃいけない、いったいどうすれば…」などと考えていた。こうしていつのまにか洗脳されて骨の髄まで搾取されていくのかサービス業のフリーター。まるで緩やかな死刑だ。ひたひたと迫る恐怖がいよいよ喉元に達した気がしたので衝動的に婚活パーティーに応募しました。ここは突っ込むところ