私の中の子供

私は、たまに街中でやっている「なにかテーマを一つ決めて、物好きな人たちがそれについて話したいことを話しまくる」みたいなマジレス向け参加型イベントが好きで、気力のある時は参加している。ほぼ初対面の一人一人が好き勝手なことを発言できるが、不用意な部分までは踏み込まない、安全圏の中での絶妙な非日常のバランスが気に入っている。お酒も入ってないのでしっちゃかめっちゃかにはならない。なにより、そういうとこのまとめ役をしている司会進行の人が大好きなのだ。

そういうところに行くと、おそらく定年して暇を持てあましているのであろう、一端の知識人っぽいオーラを故意に出しているカンジのオジサンが最低でも2、3人はいる。太宰治のポーズで「今、この瞬間がオレの人生で一番ムダな時間や…」とでも言いたげな渋いカオをして、自分の賛同できない意見には目をつむり(比喩ではなくて本当にお芝居みたいにつむっている)、意見を言いたい時は大体「昔はよかった。今はダメ」的なモノか、話の舵を自分の得意な方向へ曲げようと「そもそもこの議論の根本がオカシイ」とか突拍子もないことを言いだしたりする。そんな時、司会進行の方が、そういう太宰オジサンのプライドを尊重して感情面のケアもしつつ、クレバーで鋭い切り返しをして舵を戻している姿を見ると、「キャーッ抱いて~ッッ」となる。

先日その集まりの中に珍しく、小さい女の子がいて発言をしていた。確かにその子供は「ハッ…」とする意見を言ったのだが、ある太宰オジサンが、それまで人の意見はつまらなさそうに目を閉じていたのに、突然拍手をして答えたのだった。私はうわっ気持ち悪っ!と思った。この人絶対子供イコールピュア論者や!ンなアホな!と思った。と思っていた。しかし、私にマイクが回ってきた時に、真相は暴かれた。その時、私から出た声の調子があまりにも子供のそれそのもの、「わたしはぜったいやりたくないとおもいました」とか言って、ボキャブラリーまで忠実に子供っぽかったのである。(比喩ではなくて本当にひらがなの声というのがある)まるで私の中の子供が私を乗っ取って発言したようだ。さきほど走った嫌悪感は、「私のことも褒めてほしい!ずるい!」と思っている私の子供が発したものだったのだろうか。自分で書いていて寒気がする。同年代ライターの小野美由紀さんが「『老い』がキて人を恨むエネルギーがなくなった」と書いて、ツイッターで「わかる…俺もそう」などとこれまたおそらく同年代に同意RTされまくっているのに対し、私は自分の中に小さい子供を発見して驚いている。しかもそいつは、未だに私を乗っ取るくらい力を持っていて、隙あらばなんかやらかそうと、薄皮一枚の私を内側から引っぺがしてやろうと虎視眈眈と狙っているのだ。

自分の中の子供=「インナーチャイルド」という心理学用語があることは、言葉として知っていた。私の場合は、アラサーになってインナーチャイルドのボロが出てきたのではなく、今までボロは出まくっていたのだけれども、ようやくそのボロ部を客観的視座で見れるようになってきた段階だと思った。「司会」とか、フィールド外、立ち位置が明確に違う人のことが好きなのだって、絶対そいつのせいだと思う。この確信について的確な言語で説明するのは、まだ難しいが…。

大人になってからはそいつのことを自分でかまってやらないといけないらしい。しかし、今のところ私たちは「奥の部屋で一人でPCか鍵垢twitterか漫画描いて遊んでなさい!」「ハ~イ…」というカンジの関係性なので、先は長い。