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わさびちゃんのママにはなれない

「お前が一番殺したいのはお前自身だ。」

菅原文太の声が片頭痛に反響している。真昼間からジュリーの『太陽を盗んだ男』を見て、ブッ飛びムービーっぷりにあらゆる生活に手がつけられない状態でぼーっとしていると、外から猫のただならぬ鳴き声がする。行ってみると、カラスが子猫を突いていた。茶色いふわふわした子猫は、まだ開かない目の周りが血まみれになっていた。このシチュエーションどこかで見た。あ、わさびちゃんだ…。

ふと顔をあげると、制服を着た中学生くらいの女の子がやってきていた。「見つけてしまいましたね」と私たちは苦笑いしあった。彼女は「家でアイス食べようと思って帰ってきたら、お母さん出かけてて、弟も遊びに行ってて、鍵がなくて、家に入れなくて、そしたら猫の声がしたんで…」と、子供っぽく1から10まで説明したあと、「どうするべきなんでしょうか?」と聞いた。「かわいそう」だとか無暗に言わない、慎重で生真面目さの窺える言い回しと、あどけなく切りそろえられた真っ黒な前髪が気に入って、私は自分の思ったことを噛み砕いて嘘偽り無く話すことにした。「病院には連れていけないし、実際飼うことはできないし、このまま猫は死ぬだろう」「可哀想だしつらいけど、罪悪感を引き受けるしかないのかな」「わさびちゃんみたいなことは、普通の人はできないからわさびちゃんが有名になるんだろうね」「とりあえず見つけたのが私一人じゃなくてよかったわ。気持ちが多少楽」。

私たちはそれから、決断を先延ばしにするためにどちらともなく話をした。「私、ハムスターを飼っていたことがあって、ゴールデンだったのだけどジャンガリアン並に早く死んでしまって、次はお父さんが犬を飼おうと言ったのだけど、私が猫飼いたいって言って、それで今は猫飼ってます…」もし同い年の友人だったら意識を飛ばして相槌を打つマシーンになりたくなる話でも、胸の躍るような物語に思えた。彼女は額に汗をかいていて暑そうだったので、家からアイスを持ってきてあげることにした。「…こんなときにアイスですか?」と彼女は半ば驚きあきれるように言った。その反応が意外に思えて、少し考え、自分の姿がかつて見ていた大人と同じように写っているのだろうとやっと気が付いた。無神経で残酷だと、心の中で何度も詰った大人だ。今の私の行動は、まさに無神経で残酷だったに違いない。彼女はしかし、私が家から持ってきたアイスを私から隠れるように食べた。私たちは暫く、お互いの家が近所であったことや、自分たちの飼っている猫の様子などを話した。「猫っていつ目が開くんですか?」「さぁ…よくわからんわ」「この子は生まれてどのくらいですか?」「うーん、わからん…」「なんで親猫と一緒にいないんですか? 親猫はなんで出てこないんですか?」「うーん…親猫も私たちがいるから怖がってるんじゃないかな? 知らんけど…」私もそういえば昔、大人はなんでも知っていると思っていた。

やがて子供が6、7人やってきて、子猫を見つけて取り囲んだ。ある者は猫をつつき回し、ある者は水やエサをやらなきゃとはりきり、場は混乱した。私が「みんなを怖がってると思うよ?」と言うと、集団の中の二人だけがサッと身をひいた。

その中には子供の親が一人いて、「この猫も、こんだけ歩き回ってたら一人で生きていけるって」とめんどくさそうに言った。

そのうち彼女がそわそわしだした。そろそろお母さんが帰ってるから、買い物に行かないといけない。どうするべきでしょうか? この思慮深い子は、私の判断を待っている。しかも多分、「猫はもう大丈夫だと思うので帰ろう」とか、嘘でもはっきりとした楽観的な答えを出すことを。「どうするべきとかは無いと思います。どうするかしかない。しゃーないからかえろか」。その時、子猫は子供に追い回されて竹藪の中に逃げ込み、見えなくなっていた。猫の姿が見えないことが私を後押した。私もまた、少しでも猫を見殺しにする罪悪感から逃げたかった。それに、頭の7割、8割ぐらいでは既にこの経験はめちゃくちゃ色んなとこで使えるネタになるな…などと考えているし、そろそろ暑さと子供のカン高い声と勝手な動きでアタマがぼーっとして、いろんなことがめんどくさくなってきた頃だった。これから暫くは、我が家の猫が小首を傾げて餌を要求する姿を見ては「ホンマ家猫はめっちゃ恵まれとるなぁ…」などと考えるだろう。けれども、やがてそのわだかまりも日常の濁流の中へと消えていく。でも、多分今中学生の彼女は違う。ずっと猫の命を見捨てたことを実感として覚えているかもしれない。私の、伸ばした手をのらりくらりとかわすような態度が原因で、大人に不信感を抱くかもしれない。

彼女は逃げるように去って行った。私も同じタイミングで家へ帰る。「猫の気持ちが知りたい」と、彼女は何度か言っていた。窓の外ではまだ、どこかでカラスが鳴いていた。