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アイ・アム・シャドウ(笑)

少し前、なぜか人の列が目に入らず、よくはからずも順番抜かしをしてしまっていたのだが、最近は自動ドアが感知しない。一度など、店の前に立ってガラスを律儀にノックして、店員が苦笑いで近寄ってきたのでドアが開いた。「世界から拒絶されてるぅ~」などと冗談で言うことがあるが、ここまでくると、最早拒絶すらされていない。拒絶は拒絶される対象が存在して初めて成立する立派なコミュニケーションだ。私は世界にとって、コミュニケーション以前に存在していないということかと思いながら、前に進む為に自動ドアのセンサーに手を振る。

久しぶりに会った知人と食事をした。一年ぶりの彼女は、記憶よりも垢抜けて綺麗になっていた。注文して出てきた料理は、オシャレな名前から想像したものと違った重い揚げ物。そして、私たちの会話は終始、自称:人の話を聞くのが好きな彼女が、不自然なほど律儀に聞き手にまわった。以前はもっと、素朴な子供のように自分のことを話す人だったのでは? 思い違いか? 「あなたの話に興味がある」と言った彼女は、しかしついに一度もこちらの名前を呼ぶことはなかった。居心地の悪さに場を切り上げようとした時、彼女はようやく話をし始めた。

「ところで、自分を変えたいと思いませんか?」

私は生まれてこの方一度もナンパをされたことが無いが、宗教の勧誘は死ぬほど受けてきた。梅田ビッグマン前で、天神橋筋六丁目で、時には家の前の路地で、「ゴスペルを聞きに行きませんか?」「チゲ鍋を食べませんか?」「教会でお話しましょう」すれ違うだけの初対面の人間が交わす言葉にしては重すぎるが、楽をしてお手軽に他人と親しみを感じたい心の隙間にはピッタリのサイズだ。彼女の言葉は、形がそれに似ていた。

「知ってますか? 収入には、労働収入のほかに権利収入っていうのがあって~…」

彼女は説明会に一緒に来てほしい、もし聞いてみて怪しい話だったら私を止めてほしいと言った。やんわりキッパリお断りする方法を、脳みそをフル回転させて考える。ハタチになりたての頃、別の友人から一年ぶりの電話で「ナントカ党に入れてほしい」と言われた時には、社会と人の心の作る影を初めてマトモに受けて激しく傷つき動揺した。適切な答え方が分からず、結果ケータイに向かって爆笑してしまったものだが、今回は割と冷静な対応ができた。私のコミュニケーション力もそこそこマトモになったものだな、などと思った。彼女は席を立つ時、まるで私に向かって宣戦布告をするように、だが伏し目がちに、「誰に何を言われても止めないです。これで旦那さんに楽させてあげます」と言った。さっき「止めてほしい」と言った同じ口で。矛盾と疑いと不安を同時に孕みながらも、彼女をヤバそうなサイドビジネスへ駆り立てるもの。それは生活に挑む人間の本能だと感じた。彼女は実体なのだ。未だ親元で生活の苦しみから守られて生きる私に、実体の切実さを止める権利などあるはずがない。勿論、端から止めるつもりもないし、彼女に介入した場合に想定される膨大なリスクに見合うだけの情も義理も時間も体力も正義感もないが。

一人になった帰り道の踏切で、見たこともない大きさの蛾が、いかにも頼りなさげに飛んでいた。前へ後ろへゆらゆら、ゆらゆら。何処へ行きたいのか、自分でも分らないのだろう。もうずっと。警笛が鳴る。人々は自動的に立ち止まる。蛾を見ているのは私だけだ。私は電車に轢き潰された蛾の、粉砕する羽根や、飛び散る鱗粉のきらめきを想像した。想いに答えるように、蛾は線路の隙間へと吸い込まれていく。猛スピードの電車のライトに照らされて、一瞬で姿が消える。やがて踏切が上がったので、ブーツのヒールを鳴らして線路の隙間を見に行った。沢山の人が行き交う中で、小走りの女が急に立ち止まり、目を輝かせて線路を様々な角度から覗き込んでいる姿は、さぞかし異様だろう。でも大丈夫だ。気付かれはしない。私のコートは真っ黒で、ドアは待っていても開かないから、きっと他人からは影にしか見えない。蛾は、線路の脇に這い蹲ってゆっくりと羽根を動かしながら、存在していない筈の私をじっと見上げていた。