怒り止め

就活の時午前中に怒りが爆発して午後に収まるというムーブをしまくっていて、インターネットで調べたら「鬱」じゃね?ということだったので心療内科で薬を貰った。エビリファイという怒りを止める薬通称「怒り止め」なのだがこれが効く効く。怒りのもとにスーッとよく効きます。飲めば一発、腹の中にふつふつと湧いてくるエネルギーの元凶くんをトンッと手刀で落としたような感じ。だがこれが弊害があって、そうぞうりょくもなくなる。「そうぞう」にはクリエイティビティ(創造=目的に向かう行動)とイマジネーション(想像=状態)とがあり、よりにもよって前者がスーンッとなくなる。創造できない状態の私は、こんなの私じゃないっ!おとなしくて優しくて物分かりがよくてすぐ謝れるなんて私じゃない!生活に支障アリ!ということで怒り止めを半分にしてもらうことにした。そしたら途端に頭の中にモノローグが溢れてきて、会社の人が全員私を落ちこぼれだと思っているような気がしてきて、そうそう、そーいや私ってめっちゃこんなんだったわ。ってなってる今。人間なんて所詮脳内物質の奴隷ですね。毎日キレてキレて仕方がないって人は一度エビリファイ試してみてくださいね。めちゃめちゃ効くんで。

お久しぶり

ここ、久しぶりに覗いたら、なぜか毎日5、6人ぐらいアクセスしてくれる人がいて、ちょっと昔の私の生々しい気持ちが書いてあって、ああ、文章を書かなくてはならないという気持ちになったのだけれどもう寝る時間。そうなんです。私最近夜11時30分には寝ています。またフルタイム会社員しています。まだバイトだけどね。

 

またぼちぼちなにか書ければいいなと思います。最近の私は、また洋服のことばかり考えています。

「二重生活」を見た

「二重生活」を見た。人生にどこか虚しさを感じている院生の女性が、修士論文に書く為に無作為に選んだ(と思っている)対象を尾行する話なのだが、主題はあくまでストーキング行為によって露わになる対象者の生活の秘密であると感じた。私は、「尾行した人物の人生を書くこと」についてが主題であると想定して見たため、焦点がずれているようなもどかしさを感じた。

途中、対象者に接触してしまうシーンが一番ハラハラした。対象者である石坂が主人公を「お前の物語は凡庸で面白くない。自分で体験せずに、お前の頭の中で他人の人生を捏ねくり回して、勝手なものを書くんだろ」と論破するシーンでは、推しや自分の周囲の人をマンガにしている自分と主人公が重なった。

ところでこの主人公実は結構しっかりしてるなと思った。
対象者石坂に呼び出された時にちゃんとカワイイ下着を着ていることから、(普段はユニクロみたいなのを着てる描写がある)多分セックスして対象者を説得するつもりが無意識的にでもあったと思う。最後は泣き落としで論文を書かせろと喚くし。そして一度失敗すると次の対象者に自分が傷つかない人物を選ぶ。

主人公は、自分は悪くない第三者だと思っているかもしれないが、その実ぐっちゃぐちゃの狡猾なやつだと思った。また、尾行が終始肯定的に描かれるところもモヤモヤした。主人公もまた誰かに尾行されてるシーンを付け足すことでミイラとりがミイラになる的裁きなのかもしれないけれどそこじゃねぇだろと感じた。

私もまた、主人公のように、なにかがわかるかもしれないと思ってこの物語を見ていた。

よくわからないことになっている

もう適当にバイトをして、適当に漫画を描いて適当に生きていこうと思っていたのに、今は正社員の仕事に応募するための書類を作成しています。マゼンダとシアンのインクが出ないため、真っ黄色になったポートフォリオを丸めて捨て、私という人間は、すべてを手に入れたいのにうまくできないと泣いているか、なにもかも捨ててもうどうでもいいとヘラヘラしているかのどっちかしかないのかと思いました。

椅子

子供の頃の私は椅子に座っていた。一族の一番の孫として生まれた子供に与えられた椅子だった。望む物が全て与えられた。男の子みたいに暴力的であっても許された。代わりに「勉強ができ、将来はよい大学を出ること」が条件として求められた。能力が追い付かず、責務を果たせなくなった私は、不登校になることで自ら椅子を放棄した。きっと引き摺り降ろされるよりはマシだと思ったのだ。

 

とても出来の良いいとこが生まれて大人になりつつある。いつもしゃんとして皇族みたいな笑顔を浮かべている。すごいがっこうにはいってすごいしょくぎょうをめざしている。さんねんかんつきあっているこいびともいる。椅子に相応しい人間だ。彼女になら椅子を譲ってやってもいい。でも、彼女は椅子になんて興味がないみたいで、とっくに自分の人生を自分の足で歩きまわっている。もう多分私よりずっと遠くにいる。

 

椅子に座りたい。椅子に座りたいよう。だって歩くのはしんどい。動きまわるのは怖い。どこへ行けばいいのかわからない。漫画を描いたり仕事がすごくできる人になったりして世間に認められればまた椅子に座れるのかな。家族の椅子は無理でも世間の椅子には座れるのかな。あの椅子に座らないと私、あの椅子に座りたいと思っていないと私。

 

そうして椅子に座っていた頃の私のことを思い浮かべると、いつも俯いて手の甲をつねっている。その子が、「寂しい」と言うことを我慢していることが、今はわかる。

うちはニーマンが好きなんや

セッションをスポ根に例える意見をネットでよく見ますけど、私は童貞文学だと思うんです。童貞が童貞ならではの葛藤したり調子に乗ったり叩き潰されたりする話だと思うんです。で、ラストシーンで晴れて、バリホモソーシャルの頂点に君臨するフレッチャー先生を越えて、超絶技巧を習得して、まぁこれから女にもモテだすだろうってとこで終わってて、サイコーじゃないですか。パラダイスじゃないですか。私はこのラストシーンを素直にカタルシスとして消費しつつ、一方で後ろめたさがあった。「おいおい気持ちわりーな!?」っていうことです。アンドリューは作中練習する→褒められる→調子に乗る→怒られる→逆ギレ→練習するっていうプロセスをずっと踏んでるだけで、全くメンタリティは成長しなかったじゃないですか。そんな状態でポンッと成功してしまうなんて、そんな虫のいい話、それこそ童貞の妄想を真に受けてしまうのはなんかバカみたいで嫌だなと思って。なので「プロドラマーになったアンドリューは10年後ドラッグ中毒で死ぬ。自分をドラマーにしたフレッチャー先生を愛したり恨んだりしながら死ぬ」と言い続けてきたんです。この童貞ソウルをぐらぐら揺さぶる気持ちのよすぎるラストシーンを享受するには、死ねば辻褄が合うと思っていた。

 

監督であるデミアンチャゼルが昔ドラムをやっていて、今ドラムをやっていないってことは、やっぱりアンドリューに自分の願望や妄想をモロに託してるわけじゃないですか。「あの時先生に認められたかったな」って。そしてアンドリューは監督を越えて向こう側に行ったじゃないですか。というか、セッションは私にとって「アンドリューは向こう側に行ったんだ」という物語だったんです。だからやっぱり、向こう側に一緒に行きたいなって思ったんです。そこで、向こう側ってなんだろうと考えました。単純に、「死」や、「第二のチャーリーパーカーになって活躍する」とかではない向こう側。


アンドリューはプロになってからも調子に乗って潰されて這い上がってを繰り返す。次第に意識的にしろ無意識的にしろ、フレッチャー先生の眼差しを試すような態度になっていくと思うんです。フレッチャー先生がどこまで自分を見ててくれるか、なにをしてもちゃんと叩き潰してくれるかどうか確かめるようなカンジで調子に乗ったり無茶をする。でも段々活動する場所が違ってきて疎遠になり、やがてフレッチャー先生は老いて一線から退く。そんなフレッャー先生を呼び戻そうとするように、アンドリューはキッズリターンのモロ師岡みたいな悪い先輩に近付いてドラッグを覚える。フレッチャー先生はやっぱりアンドリューのこと殴ってくれるんだけど、もうおじいちゃんだから全然パンチが痛くないんですよ。悲しいですね。そしたら余計にドラッグするじゃないですか。そして30歳前ぐらいになって奏者としても忘れられボロボロになっていく。


私の解釈のフレッチャー先生は、一流の奏者を育てたいから厳しくしているんだと心の底から思っていると思い込んでいるんですけど、無意識裏に二流の奏者としての嫉妬心で才能を潰してやりたいという悪意も持っている。ドラッグ中毒で病院送りになったアンドリューを見て、「ざまぁみろ」と思った先生は、初めて自分の中の悪意を自覚して驚くんですよ。病床で懺悔するかもしれない。アンドリューはなにそれ今更ふざけんなとフレッチャー先生を恨みますわ。でも、もう死ぬって手前のところで、フレッチャー先生のいないところで自力でスティックを握り始める。


アンドリューはおじさんになって、またプロになってるかもしれないし、音楽学校の先生になってるかもしれないし、ショボいジャズバーで演奏してるかもしれない。場所はどこでもいいんですけど、またドラムをしているんですよ。フレッチャー先生はもうお爺ちゃんなんで老衰で死にます。死の床で思い出すのはアンドリューのことではない。死なせてしまった生徒とか、愛する家族とかのことなんです。アンドリューは所詮フレッチャー先生の人生のワンノブゼムに過ぎないんですよ。でもアンドリューはドラムを叩いている。フレッチャー先生がこの世を去る瞬間も、去ってからもスティックを握って、のうのうと鼓動を刻み続けるんですよ。それがフレッチャー先生に対する最高の復讐と恩返しで、向こう側にいるアンドリューの姿だと思ったんですよ。そしておれのセッションのラストシーンはこれやなと思いました。

私とお母さん

男の子とセックスしそうになったとき、やべぇ、お母さんにどう説明したらいいかわからないって頭がいっぱいになったことがある。こういうときみんなどうしてるんだろ。「今からセックスしてきます。晩御飯はいりません」とかLINEするんですか?罪悪感とか、次の日どうしようとか、そういうモヤモヤとはどうやって折り合いをつけるんですか?そんなことあまり友達と喋れなくてよく知らないまますげぇいい年の大人になってしまったからインターネットに書いている。

 

私が一人暮らししていたとき、お母さんは人間ドックで不整脈が5万発出た。実家に戻ると500発になって、そして手術したら治った。お母さんは私が家を出てる間絶対に「寂しい」と言わなかった。だから私のせいなんじゃないかなって思う。お母さんは自立したい私のよき理解者のお母さんでいるためにずっと寂しい気持ちを我慢していて、だから不整脈が5万発も出たんじゃないかな。

 

私は、私たちは、お互いの区別がもうずっと長いことついていない。心も身体も。ってことなのかなと思う。要するにこれって。どっちが悪いとかどっちが正解とかじゃなくて。

 

今はたまたま日常の様々な作用で気分が落ち込んでいて、人生の上手くいかない出来事をぜんぶ母親との癒着のせいにすれば楽して解決(?)だねっていう思考の罠が働いて、認知を曲げているのかもしれない。そうじゃないことは私が私で証明しなきゃいけない。働いて自立して恋をして書を捨てて街へ出て。そんなことわかってるけどまだ家にいたい。ずっと子供でいたい。ずっとずっとこのまま、大人の出来損ないでいたい。でも、人間の心は、意志は、いつも一方通行じゃないことを、私はもう知っている。

 

お母さんはいつも綺麗にしていて私はいつもすごくみすぼらしい。お母さんは白いコートに黄色いスカートとか着るけど、私はボサボサ頭に猫の毛だらけの真っ黒なコートを羽織って地下鉄の真っ黒な窓に写ったら野良犬みたい。あまりにも野良犬だったので髪を切った。春だし、前髪にパーマもあててもらった。女の子みたいにくりんと巻いた前髪は、家に着いた頃にはセットが崩れて縮れてしまった。

「お母さん見て見て。パーマ陰毛みたいになっちゃった」

「なにそれ。変なこと。怖い。怖いわ」

お母さんは決して目を合わせなかった。娘の口から出た「陰毛」ごときでびびりまくって。子供二人も産んどいて、どっかの妻子持ちのおっさんとハートのスタンプをLINEで飛ばし合っといて、なんなのこの人。

なんなの。

お母さんは、私のなんなの。

「ごめんね。もうお母さんをからかって遊ぶのはやめるね。あはははは」

耳から入ってきた私の笑い声は、なにかを断ち切ることができそうなくらい鋭い、悲鳴みたいだった。